「ああ、姫路の方に行きよる」
1945年3月19日、加西郡
東から飛来した米軍艦載機は、鳴り響く警戒警報が空襲警報に切り替わる前に、もう視認できる位置にまで接近していた。そのまま南へ向かうのかと思いきや、機首の向きを変え、鶉野飛行場を強襲した。小谷さんは伝令として守衛所に走った。
待避所に駆け込み、伏せた。その瞬間、「バババッ」と音を立て、5メートル先で機銃掃射の土煙が上がった。滑走路の零式輸送機が炎上した。「飛行機が燃えるゆうのは、えらいもんやで」。なすすべなく見つめるしかなかった。その光景が今もまざまざと目に浮かぶ。
◇
航空隊が開設された43年、川西航空機姫路製作所に養成工として入所。加西市から姫路市天神町まで25キロのでこぼこ道を自転車で通った。完成した戦闘機が試験飛行で飛来すると、皆で歓声を上げ、手を振って出迎えた。翌44年2月、鶉野へ。姫路で造った機体を分割して馬が引く荷車に載せて鶉野に運び、組み立てていた。
主力戦闘機「紫電」は短期間で増産され、不調も多発。機体の
性能を高めた「紫電改」が45年に登場すると、紫電よりも低い主翼にたびたび頭をぶつけた。完成した機体は「軍艦マーチ」を流して送り出す。
ある日、紫電改が滑走路の段差に車輪を引っかけて前のめりになり、整備したばかりのプロペラがぐにゃりと曲がる瞬間を目撃。工場の作業員から、ため息が漏れた。「こっちは1機でも早く出したると頑張っとんのに、何やねん」
45年6月の姫路市への空襲で姫路製作所が全滅すると、組み立てや整備をする機体がなくなってしまった。
◇
「話すもんが、みんないなくなってしもうた」
2019年、加西市は紫電改の実物大模型を作り、滑走路跡の倉庫で公開。小谷さんは、航空隊や飛行場の調査や資料収集に取り組んだ「鶉野平和祈念の碑苑保存会」のメンバーとして月2回の公開日に足を運んだ。
驚いたのは、90歳代や100歳を超える戦争体験者やその遺族、子や孫らが「当時の話を聞きたい」「体験を聞いてほしい」とひっきりなしに全国から訪れたことだ。各地の講演や授業にたびたび招かれたが、この3年間ほど、当時を語り、体験者の話を聞く機会はかつてなかった。
市が今年4月、平和学習施設「
30年ほど前、川西航空機従業員の戦時体験の聞き取り調査に集まった約30人の大半が鬼籍に入った。「最初は『そんなもん、今さら』と思っていたが、戦争があればどれだけえらい目に遭うか、やっぱり若いもんが知らんといかん」
市が巨費を投じて模型や施設を造る一方で、戦時中の姿をとどめる防空
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August 18, 2022 at 03:00AM
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