地元民への〝至極まっとうな反論〟
死体、遺体、亡骸(なきがら)……様々な言葉によって表される「亡くなった人」たち。わたしたちと同様、身体はあるが、生きてはいない。具体的には、呼吸がなく、心臓が動いておらず、瞳孔が光に反応しない状態を指す。 医師が判定するまでは「死亡」とはならないが、便宜上はそれが「亡くなった」ことを物語る。言うまでもなくわたしたちも遅かれ早かれそこへ仲間入りを果たすことが確実なわけだが、その事実から極力目を背けてあたかも死のない世界を築こうとするかに見える人々もいる。 つまり死体を積極的に差別することによってである。日常生活から死体そのものを排除して、死を想起させる物的な証拠を消し去るのだ。 近年、遺体安置施設の建設をめぐって各地で反対運動が起こっている。 例えば、神奈川県川崎市のある遺体ホテルでは、建設前に開いた地元民への説明会で、「こういう施設が近所に存在すること自体、気持ち悪い」などという意見が飛び出した。 皮肉な話ではあるが、それに対する経営者の反論は至極まっとうであった。「法的には何の問題もありません。よく考えてください。人はみんな死ぬんですよ。みなさんもこういう施設を必要とする時が来るかもしれない」(「死者のホテル」が繁盛する時代/2016年11月2日/日経ビジネス)。
少ない火葬場の待機期間を支える役割
遺体ホテルとは、遺体安置を専用とする施設のことで、葬式や火葬までの間預けておくことが主な目的だ。 日本における年間の死亡者数は現在約137万人(人口動態統計/厚生労働省)ほどだが、今後右肩上がりとなり2030年には年間160万人を超える「多死社会」が訪れるとされる。 そのような状況下で遺体ホテルは、ただでさえ少ない火葬場の待機期間や簡便な葬送を支える役割を担いつつあるが、少なくない人々は〝NIMBY〟(ニンビー、Not In My Back Yardの略語で「施設の必要性は理解できるが、家の近くでは止めてくれ」)という立場を隠さない。 けれども、そもそもの根本的な問題は、ニンビーという感覚以前に、死体がグロテスクな存在として観念されていることにある。そう、死体を「人」だとは思っていないのだ。 <死体はこの国では、もっとも差別された存在である。それを救っていたのは、宗教儀礼である。だから、ホトケなのである。聖と賤とは、まさに裏腹である。だから、時代が変われば、死体ほど差別されるものはない。(略)死者が変に重要視されるのは、それを特殊なものとして、タブーを置くからである。いまや必要なのは、ほかでもない、死体の「人間」宣言である。それを、ふつうの人として、扱ってあげればいいではないか。(略)死者に必要なことは、ふつうの人としての単純な取り扱いである。>――養老孟司『日本人の身体観の歴史』法藏館 これは解剖学者の養老孟司がかつて述べた日本における死体の取り扱いに対する異議申し立てである(以上『日本人の身体観の歴史』法藏館)。 養老は「死体は歴然とした身体である。しかし、多くの人は、それを身体とは見なさない」と指摘する。 「それは死体であって、『生きている身体』とははっきり別物なのである。『生きている身体』が、死という瞬間を境にして、突然異次元に移動する。そんな馬鹿な話はないが、世の中がしばしば、その種の馬鹿な話でできていることは、よくご存じのとおりである」(同上)……。
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November 26, 2021 at 05:05AM
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